毒は廻る

 退勤は18時27分だった。職場から一歩外へ踏み出すと、涼しくて心地の良い空気が私の体を包み込んだ。もし許されるならこのまま寝転がりたいとも思ったが、目的地があったため、私は足早に駅に向かった。

 行き先は自宅ではなく、実家。久しぶりに実家のあたたかいご飯が食べたいと思ったことと、父から社会的手続きのサポートを頼まれていたことも合わさって、夜を実家で過ごすプランを予め決めていたのだ。

 混雑が目立つ電車に乗り込み、私は将棋アプリを開く。そして負けた。大事な局面で私が間違えたようだ。ふと顔を上げると強烈な気持ちの悪さを覚えた。負けたことに対してではない。既に絶不調だったのだ。

*─*─*

 思い返せば今朝から調子は良くなかったのだが、昼休憩を境目に持ち直したものと思っていた。「檸檬さん、ぼーっとしてますけど大丈夫ですか」「ああいや、すみません。ここから上げていきますよ!」「頑張らなくていいんすよ」という同僚との会話を心のポケットにしまいこみ、午後からの会議や面接に臨んでいた。交感神経はフルスロットル。心が休まる時間なんて持てなかった。

*─*─*

 電車は次々と街を走り抜けていく。私はと云えば、吐き気を抑えることに精一杯だった。高級ホテルの床を汚染したあの日の記憶が鮮明に蘇り、それだけは許してならないと意地と根性で耐えていた。何度も限界に達しようとしたが、その度に踏ん張った。

 降車駅に到着したときには、吐き気は極限に達していた。遠のいていく意識の中で、改札を通り抜け、バスターミナルを通り過ぎ、実家から駆け付けてくれた親の車に乗り込んだ。「よくここまできたな」のひと言に全身から力が抜けた。そして用意されていた袋の中に、溜め込んでいたストレスまで一緒に吐き出すような勢いで嘔吐した。

*─*─*

 体の中を毒が廻っているようだ。気がついたら動けなくなっていた。遅効性の毒が廻って、さらに廻って、心身を蝕んでいく。もっと早くに気付ければいいのだが、最早モニタリングが機能しないほど疲弊している。一週間くらい休暇がとれないか、主治医や上司に相談してみようかと思う。

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